年表

構想から着工まで
昭和2年
(1927年)
 
洞海湾トンネル構想が浮上
若戸隧道(ずいどう)「若松政界太平記」(出版:フロムワン)
林国雄氏(大正15年)若松商工会→会議所(昭和2年提案)
高野貞三著[参考]
昭和5年
(1930年)
4月2日
若戸渡船転覆事故で73名の水死者
昭和10年
(1935年)
 
洞海湾トンネル構想が浮上
昭和11年
(1936年)
12月23日
県議会が洞海湾トンネル計画を議決
昭和13年
(1938年)
12月13日
内務省が洞海湾トンネル計画を施行認可
(日中戦争で中断)
昭和18年
(1943年)
 
内務省が再計画(太平洋戦争で頓挫)
昭和27年
(1952年)
6月6日
道路整備特別措置法(有料道路制度)が確立(公布)
福岡県が現地調査を実施、橋梁案を計画
昭和28年
(1953年)
5月18日
2級国道199号門司・八幡線の指定
 
7月21日
若松架橋促進市民大会開催
昭和30年
(1955年)
10月16日
建設省若戸橋出張所を旧若松市に設立
 
11月
本格調査を開始
昭和31年
(1956年)
4月16日
日本道路公団設立
 
8月1日
調査を建設省から日本道路公団が引き継ぐ
昭和33年
(1958年)
4月
工事説明会実施
 
5月1日
若戸大橋工事事務所設立
 
8月26日
若戸大橋の事業許可(事業費51億円)、事業着手(用地買収、工事発注)
着工から開通まで
昭和34年
(1959年)
3月30日
旧若松市役所前広場で起工式
昭和37年
(1962年)
9月26日
若戸大橋が完成(交通量 6,700台/日)
 
9月27日
供用開始
 
9月28日
開通記念「産業・観光と宇宙大博覧会」開催(〜11月25日)
開通から現在
昭和47年
(1972年)
2月1日
人道料金無料化
昭和54年
(1979年)
8月
福岡県幹線道路協議会にて4車線化を提案
昭和57年
(1982年)
12月21日
4車線拡幅の都市計画決定
昭和59年
(1984年)
4月24日
若戸大橋事業変更許可(事業費230億円)
昭和62年
(1987年)
3月30日
拡幅の本線工事着手
 
5月31日
歩道廃止
平成2年
(1990年)
2月23日
若戸大橋事業変更許可(事業費174億円)
 
3月31日
若戸大橋4車線供用開始、北九州都市高速道路と接続
平成17年
(2005年)
9月30日
北九州市が若戸大橋を引き継ぐ
 
11月1日
北九州市道路公社設立
平成18年
(2006年)
4月1日
北九州市道路公社が若戸大橋を引き継ぐ
 
8月1日
通行料金値下げ
平成20年
(2008年)
 
都市高速道路との接続(戸畑合併料金所)にETCによる徴収開始
平成23年
(2011年)
 
大規模補修工事開始
平成24年
(2012年)
9月27日
開通50周年

若戸大橋ができるまで

交通手段は船しかなかった。

 洞海湾をはさんだ位置にある若松と戸畑。若戸大橋ができる前は、それぞれの場所をつなぐ交通手段は船しかありませんでした。明治、大正時代には小さな船が若松と戸畑間を往復し、人や荷物を運んでいましたが、車や馬など重いものは運べませんでした。
 昭和5年には渡し船による大きな事故があり73名もの方が犠牲となりました。その後住民から連絡道路を造ってほしいという声が高まりましたが、戦争で計画が中止になりました。
 それからわずか数年で急速な時代の変化がおとずれ、車を利用する人が増えたことにより、車の通れるつり橋が必要になってきました。

橋を通じてもっと快適な毎日へ。

 若松区と戸畑区間を行き来する方法が船しかない時代に比べると、現在はとても便利になりました。若戸大橋ができたことで、人や物の移動がスムーズになり、生活のリズムも以前より快適になりました。今では多くの人々の思いや夢を運ぶ道路として現在にいたっています。
 平成24年9月27日で開通50年を迎える若戸大橋。車社会となった現代では、北九州の交通の要として、また若松区と戸畑区を結ぶ道路として、なくてはならない道路のひとつに数えられています。
 平成23年度9月には、通行台数6億台を達成し、若松・戸畑区民をはじめ北九州市民にとって、生活をつなぐ大切な道路となっています。

若戸大橋の建設

国内最新技術を集結

 若戸大橋の建設にあたっては、「わが国初の大きなつり橋をつくる」という人々の決意と、自然災害での被害を防ぐ工夫が重要でした。
 このため、土木研究所や大学などで、たくさんの技術が集められ、いろいろな調査研究等が2年半にわたって行われました。
 若戸大橋の建設は多くの時間を費やして始まり、土木技術者に大きな自信と勇気を与えました。また、後の関門橋や本州四国連絡橋、レインボーブリッジ、明石海峡大橋などの「長大つり橋」建設のお手本となりました。

 つり橋は「ケーブルを支える主塔、つり橋の重さを支える橋台(アンカレッジ)、ケーブル、ハンガーロープ、車道となる補剛桁」の5つの組み合わせで成り立っています。
 若松側と戸畑側の両方から橋を造っていき、最後は中央部でつなぎました。
 若戸大橋を若松側と戸畑側にかけたとき、台風などによるゆれにそなえて、トラック36台をのせて各部のたわみ、応力を測る振動試験を行いましたが、いずれも計算値どおりでした。

 若松・戸畑の渡し場付近には明治時代の町並みを多く残した通りや、建設作業員が通いつめた飲食店などがありました。
 若戸渡船は別名「ポンポン船」という呼び名が付けられています。平成12年に「くき丸」が、平成17年からは「第17わかと丸」が若戸渡船として活やくしています。